他人の目線ばかり気にするな 知っ得!医学部合格の処方箋 意識していますか?~心がけ編~ | 知っ得!医学部合格の処方箋 | 医の知の森<近畿地区医学科進学情報センター>
「反省」のスタートは、いつも「自分の出来ていること」を確認することから
自分自身を落ち着いて見つめること、発想の転換が、まさに人生の転機になったとも言えるのです。
「他人と比較する」ということ
社会人になった大人には普通だと思われることでも、大方の18歳〜19歳の受験生にははじめて経験することがあるものです。「他人と比較して差があること」の現実感はその際たるもので、この時期の彼らには重大なことでしょう。大方の生徒は高校受験の際にそれは経験しているとお考えでしょうが、成績差があることの心理的プレッシャーは、大学受験と高校受験では比較にならないほど大きいと言えます。ましてや医学部受験のように目標が高い入試では尚更です。受験生の心理的な苦しさはあって当然のことですが、保護者は意外にその重要性に気づいていないことが多いように思います。これまでと違う「はじめての経験」には、大人でさえ戸惑いの連続です。社会経験のない受験生なら尚更でしょうから、よき指導者はそれに真剣に付き合ってあげなければならないのです。
皆さんは普通に「偏差値」という言葉をお使いになるでしょう。これまで受験の世界で生きていた人にとっては当たり前のことですが、偏差値は「全体の中での相対的な位置づけ」を指しています。予備校では偏差値を使って成績を見ていますし、指導もしています。「偏差値○○ならこの大学は受験できる」という言い方は、ある特定の模試の集団の中で、他人と比較したその人の位置を見ていることになります。
つまり偏差値を使うことは、いわば「他人と比較する」ことに他ならないのですが、これは顔の見えない誰かと比べているという感覚なので、さほど個人を意識することなく誰しも受け入れているはずです。ところが、同じように「他人と比較する」ことでも、知っている誰かと比べるとなると話は別で、相当プレッシャーがかかるものです。
この辺りのことは受験生本人の性格によるものが大きいともいえますが、どうしても他人と自分を比べて「上下」や「勝ち負け」を考えることが多い人ほど、執着がなかなか取れないので、苦しくなってしまうでしょう。友人はスムーズにここまで来たのに、自分は多くの無駄な時間を過ごしてきたことへの後悔や、能力の格差への嫉妬心など、受験生には内面で多くの葛藤があります。
それは、顔見知りであるがゆえに知っている「その人」のバックヤードの情報があるからです。例えばどんな塾でどんな教育を受けてきた「友人」なのか、何のクラブでがんばっていた「知り合い」なのか、どんな性格の「兄弟」なのかなど、成績以外を含めて総合的に「その人」と自分を比べることがあるでしょう。大学受験の年齢まで、多くの受験生は「努力は報われる」と暗に教えられてきました。しかし、「努力しても報われないことだって世の中にはある」ことや「簡単には越えられない壁」があることを、初めてリアルに感じ取るのが医学部受験だといえるのです。
すると、「このテストでは確かに私の方が下だが、日常のテストでは大体私の方が上の順位になっている」とか、日常の出来具合を目の前のテストに織り込んで独自の補正をするようになってしまいがちです。そうなると、純粋な「このテストの出来」以外のものを無意識に比較する材料に読み込んでしまいます。そんな習慣が身についてしまうと無意識のうちに目の前の現実に素直になれなくなってしまいますから、一度仕切り直し、自分自身を落ち着いて見つめる必要が出てくるでしょう。
自分の学習に専念する気持ちを持とう
確かに入試は他人と競争して合格を勝ち取ることに違いありません。しかし、元々の「大学のアドミッションポリシー」には入学時に必要なものは何かが示されており、「学力」はその一部と見做されている訳ですから、他人と比べて上か下かというのは本来ちょっと違うように思います。もともと必要とされている大前提のレベルがある訳ですから、他人との比較より達成レベルが重要に思います。
これまで多くの方を医学科合格に導いてきた経験では、その方達が入学後にどうなったかも見てきました。あまり表立って言ったことはありませんが、医学部は入学後の学習レベルの維持が必要ですから、かなり多くの方が留年していたり、国家試験に不合格になったりするところを見ています。大学内部の試験で追試や追追試の受験を余儀なくされる人はザラにいます。各大学は入学者人数と卒業者人数を発表していまが、所定の入学者のうち6年間の就業年限で卒業する人は、90%を切る大学がいくつもあり、在籍者の10〜15%程度が留年していることが分かります。一概に言えませんが、医学部は学習継続するだけの力が付かないうちは合格させてくれない方がマシなのではないかとさえ思うのです。
かつてクラスの生徒さんの中にある女子受験生がいました。彼女は高卒コースにいた生徒でしたが、窓口に来るたびに「かつての友人」のことに触れるのが常でした。その「かつての友人」は推薦入試を使って現役で医学科に合格した…というお話なのですが、事あるごとに彼女が口にしていたのは「高校の時は自分の方が成績は上だったのに、自分はいつもミスばかりして肝心の時にヤラかす」というお話です。
模試の成績が返却されるごとに彼女は窓口に現れるのですが、決まって「ここがミスをしていて本当にバカなことをした」「ここで計算を失敗していて後が全部ダメになったのは情けない」というような、自分を責める言動を繰り返すのです。大概の受験生はむしろ言い訳が多く、「ここでミスをしたのは後から考えたら分かったから大丈夫です」「ここで計算ミスさえしなかったらあと20点取れたからもっと判定は上だったはずです」などという人の方が多いのですが、彼女は逆でした。しかし、こういうことが習い症になってしまうと生き方そのものに影響しますし、精神的な健康にも影響してしまいそうなので、私はとても心配でした。
そこで、考え方を前向きにするにはどうすればいいかを彼女と一緒に考えるようになり、試してみることにしました。私が気になったのは、彼女がこれまで拘ってきた「反省」方法が、どうして「出来な(い)」+「かった」のか、つまり「否定形」+「過去形」の繰り返しばかりだったことです。これでは「出来ない私」を何度も見続けることになりますし、「過去」に囚われて自分を詰問する日常から脱出できるはずがないように思ったのです。
そこでこれからは、どうしたら「出来る」+「ようになるか」、つまり考え方を「肯定形」+「未来形」に変えていくようにしました。もともと英語の成績は比較的高めの人でしたから、そこを「反省」のスタートにすることにしたのです。「反省」のスタートは、いつも「自分の出来ていること」を確認することからはじめ、次に「この部分を向上させるために、何をすればいいだろうか」という考え方です。私も伝統的な日本人的「反省」の世界観で生きてきましたが、多くの場面でそれは詰問的なイメージがあり、自分の改善にはマイナスだと言えます。彼女のこれまでの考え方はまさにそれだと言えるでしょう。そこで私と彼女が目指したのは、自分の向上に気持ちがワクワクとなれる「反省」です。
わずかこれだけのことでしたが、彼女の考え方と行動は劇的に変化を遂げました。少なくとも友人の話をすることは全く無くなり、代わりに自分の答案の「この部分ができていることが嬉しい」こと、さらに自分を向上させるために「この部分を次には直したい」ことなどを話すようになり、学習が前向きな姿勢に変わってきたのです。すでに彼女にとって、他人との比較はどうでも良いことのようでした。自分のレベルを向上させることに目を向けた、新しい生き方を彼女がスタートさせたと言えるでしょう。
以前、入試は団体戦だということをお伝えしたことがありました。つまり、合格は個人の努力でするといえども、そこに至るまでの学習はクラス全員でやろうという空気感が必要だということです。周りの全員で合格しようというくらいの少し大きな志を持てば、それは自分にもいい影響で跳ね返ってくることを何度も見てきました。しかし、その前提として、他人と比較して競争ばかりしている自分であっては、それをする余裕もないでしょう。
気づけば彼女は「団体戦」の一員として、「今の友人」たちと自分磨きに切磋琢磨していました。たった一つの発想の転換は、ひょっとするとそれ以降の人生にも影響するかもしれません。その年、「今の友人」たち全員と共に、彼女が医学部に合格したことは言うまでもありません。発想の転換が彼女にとって、まさに人生の転機になったとも言えるのです。